ゆと里世代

ここ最近は二人で話す機会が増えた。他者との会話は最高の薬であることには間違いないのだが、毒も少量なら薬となるように、薬も過ぎれば毒になる。私は日常の合間を縫って生まれた時間と会話の産物を元に日本語をこねくり回すのが好きだ。そうするには、孤独が必要。

いや、違うだろと否定したくなる気持ちもわかる。俺は理解されたいと言葉を連ねた結果として理解されるのを拒んでいた。拗ねていたともいえるかもしれない。ともかくそのことを誰にも話したくなかった。本当なんだよ。小学校六年生の時、塾の国語の先生に「お前この文章ちゃんと理解してる? 自分の答案と向き合ったことも今までないだろ。国語なんか捨てちまえバカ」と、鼓舞の形をした弾丸で撃ち抜かれたあの日をよく覚えている。ついでに先生の蹴りがもう一発。主張は喉元まで迫り上がったけれど、やがて喉から胃まで一本の熱い道を作って落ちていった。俺はその日から色んな本を乱読した。思い出せる。読んでいたのは伊坂幸太郎『重力ピエロ』、川上弘美『神様』、吉本ばなな『キッチン』。

高校に入って、自分の思索(八割政治だったが)の結果を綴るためにブログを始めた。*1何か思うところがあっても、それを誰かに伝えるのに必要な道具を有していないのは哀れなことだ。思考停止の幸福な人生の代償に、主張のない消費者として犬死にしたくないなと思った。大学に入って頻度はめっきり減ったけれど、三カ月に一回くらいは、はてなブログの編集画面と向き合う時間があった。

事実はもうひとつあります。

高校三年生の六月くらいだったと思う。東京でアイドルマスター同人誌即売会が開かれていて、俺の好きな絵師さんや物書きさんも参加していたので赴いた。その時になんとなく購入した志望大学のアイマス研SS合同誌を読んで、陳腐な表現で申し訳ないが、感動したんだ。SSというのは、あくまで公式のキャラ設定の上でしか生きないものだという固定観念があった。一方で、そんなSSは淡白だなと物足りなく思っている自分もいた。だが、彼らのSSはそんなのおかまいなしで、顔に真っ赤なペンキを塗りたくられたような感覚的体験をもたらしてくれた。繊細で淡々とした筆致と世界観に、空を翔るような大胆さがあった。俺は、受験産業に取り憑かれた人間から口移しされた毒を燃料にして、パソコンに張り付いてWordにSSを書き溜めていった。佐藤心さんは俺の一番好きなキャラ。彼女は50m走10秒くらいだったら嬉しいなという気持ちがある。五十嵐響子は突拍子もなく悪態をつく女であってほしい(先に謝罪しておく。すまない)し、佐久間まゆは「まゆは海老食わせとけば喜ぶんですよぉ こんなに手間のかからない女の子はいないでしょう?」と変な角度から売り込んでくる"海老喰らいのまゆ"であってほしい。

話が逸れた。頼むからブラウザバックはしないでくれ。

まあそうやって時間と薬を食べて空虚を吐き出すのは当の本人からすれば幸福だし、現に青春を謳歌している人間からすれば不幸とも思えるかもしれない。孤立ゆえの不幸を選ぶのか、幸福と名のついた実を食べて消費者になるのか、選択を迫られている。

出来ることなら、俺は両方を選びたい。幸福がゆえの不幸と、不幸がゆえの幸福を、全て愛して生きていたい。おそらく不可能じゃない。実際にそうやって生きている人もいる。けれど、俺はそんなに器用でもない。幸福を願う人間が幸福になれないように、不幸を願う人間も不幸になれない筈だ。幸福そのものと、幸福の喪失の間に、今までの俺は存在していたんだと思う。

幸福という名の毒が俺の体内を冷ややかに循環していて、血潮の中にある意味を殺している。精神に火を灯さなければ。燃やさなければ。益虫のふりをした破壊者を、二度とこの目に映らないようにしなければならない。

 

 

 

ここまで読んで俺のことをそこはかとなく嫌だなと思った人もいると思う。あくまで一側面に過ぎないから、俺ごと嫌いにならないで欲しいな。俺だってその人ごと嫌いになることは滅多にないし。まあ、実害与えたわけじゃないし大丈夫だと信じていますが。自分の心と向き合って、それが敵意だと気づいたなら俺を殴ってほしい。*2

 

 

*1:俺のことよく知っていて、かつネトスト得意な人なら見つけられるかもしれない

*2:誰も見てくれないくせにお気持ち表明するの、射精後の虚脱感しか残らなくて耐えられなくなったので公開することにしました