街・国道

街が好きである。

街という生き物が醸し出す、博愛主義的な素っ気なさにずっと惹かれている。

 

今、僕の机には物性物理学の書籍がある。理学書というのは隅々まで読み込み、自然科学の常識あるいは思想を涵養していくものである。本来は、一字一句見逃してはならない。どうしても読み飛ばしてしまったりするかもしれないし、著者の方から飛ばしても良いとの但し書きが入るかもしれない。だが、多くの理学書はすべてのページと向き合うことを読者に強要する。強要とまではいかなくとも、前提とされている。

 

それに比べて街は素っ気ないのだ。

 

別に通らない路地があろうと、街はその事実を気に留めないのである。全てを知ることを強要しない。それでいながら、普段行かないような場所に行けば、新しい景色を見せてくれるのだ。前者が素っ気なさ、後者が博愛主義にあたる。

例えば目の前にある建物が鎮座しているとする。我々はこの建物の存在に理由を求めることができる。誰かが建てたいと思ったからそこに建物がある。もし建てる理由がなかったならば、その空間は公園になっていたかもしれない。

そうやって誰かの必然が積み重なった結果として街は偶然の風景に満ちている。

 

東京はいい街である。

JR御茶ノ水駅を出ると、まず神田川との高低差に驚く。都営バスのバス停も、東京のJR主要駅に似つかない簡素な造りである。駅から東へ旧中山道沿いに歩いていく。緩やかな右カーブの下り坂。ガラス張りの突き抜けるように高いビル群が右手に見える。だが、靖国通り国道17号線の交差点に差し掛かるとその景色は急変する。高層ビルと形容するにはあまりにも低い、痩せぎすの雑居ビル群。

この風景は誰かが仕組んだものではないはずだ。

 

必然が齎すその偶然ーーその不完全さに僕は価値を見出したいと思っている。

 

 

国道

国道が好きである。

最近は常に国道のことを考えている。ある国道を走り終ると、路上のほてりが消えないうちにと心あわただしく国道にころがり出ていく日々である。おかげさまで、僕は免許を取って3カ月で総運転距離が3,000kmを超えている。

これは今に始まったことではない。思えば、中学・高校の頃にも鉄道に乗り狂っていた時期が度々あった。家族と過ごすことが好きでなかった僕は、きっと永い間そのような生活に憧れていたのではないだろうか。家ではいつも自分ひとりの殻に閉じこもりがちだったから、自然そんな行動への衝動が培われていたのかもしれない。暇さえあれば、JRの130円片道切符を握って房総半島や北関東をぐるりと一周していた。

 

国道あるいは鉄路を疾駆していると、一瞬の出会いののちにはるか後方に去っていくものに、取り返しのつかない愛着と名状しがたい苛立ちに憑りつかれてしまうことがしばしばである。ことに夕暮れどき、無人駅の跨線橋から見下ろしてくる少年のまなざしや、白昼、畑の中を歩く老婆の皺だらけの横顔が生々しく目に焼きついて離れないことがある。無限に擦過していくそれらは、残像とも潜像ともつかない幾層もの層をなして僕の心の中に沈みゆく。

風景の中を突っ切っていくときにあるのは、風景と交差するわずかな感覚と風景や事物への喪失感である。しかし、いったん逃げた風景の数々は、ある日突然まったく別の場所で立ち現れてくる。例えばそれは国道である。かつての風景のさまざまなイメージの破片がちょうどジグソーパズルのように埋め合って、たしかな風景として現れてくる。このとき、僕は絶えず生起する列島の鼓動を感覚して瞬時焦燥を覚えるのである。いま、どこで誰が何をしているのか、何が起きているのか。無性に知りたくなるのである。

僕にとって、地図上の一本の線を辿ることは、本を読むことに匹敵すると言っていい。絶えず流れ去る時空に向かって、自分の記憶を総動員して感応し続けていると、いつしか新たな邂逅が待っている。そんな期待と興奮を求めている。

 

これに共感した人は僕と国道を走りましょう